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第6回 ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン

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292xNx2014062500055_1.jpg.pagespeed.ic.8CNcmo80-k 18歳でヤードバーズに参加したエリック・クラプトンは、自らがギタリストとして大きく成長することによって、バンドの可能性を高めていった。だが、そのヤードバーズがポップな方向性を打ち出し、商業主義的な意味で上昇気流に乗りはじめると、バンドを去っている。彼が目指すものはブルースという芸術であり、富や名声ではなかったからだ。さまざまなことに失望し、音楽界そのものから身を引くことも考えたという。実際、彼はいったん生まれ育ったリプリーに戻り、あらためて祖父母と暮らすようになっていた。

 そのとき声をかけてきたのが、すでにブルースブレイカーズを率いた活動を開始していたジョン・メイオール。彼の声や歌い方、ジャズ・ブルース的な方向性は好きになれなかったが、オーティス・ラッシュやバディ・ガイを意識するようになっていたクラプトンは、シカゴ・ブルースのエッセンスを持ち込むことによって、ブルースブレイカーズを理想のバンドに近づけようと考えたという。12歳上のメイオールの、熱心なレコード・コレクターとしての側面も無視できなかった。

 ベジタリアンで酒も飲まないメイオールとの毎日は楽しいものではなかったが、ともかくこの時期、彼はたくさんの貴重なレコードを聴き、連日ステージに立ち、あらためて腕を磨いていった。そして、66年の4月、『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』を生み出すこととなる3日間のレコーディング・セッションに臨んでいる。
 高出力のマーシャル・アンプでレスポールを鳴らし、表情豊かなヴィブラートとベンディングで「クラプトンの音」を確立した、記念碑的作品だ。ロバート・ジョンソンの《ランブリン・オン・マイ・マインド》では、メイオールに勧められ、まだまだ自信はなかったそうだが、初リード・ヴォーカルにも挑戦している。

 もちろん主役は、そのメイオール。彼が弾くピアノとオルガン、ブルースハープとヴォーカルが、あくまでもバンドの核であり、《ハヴ・ユー・ハード》という質の高いオリジナルも書いている。しかし、オーティス・ラッシュの《オール・ユア・ラヴ》、フレディ・キングの《ハイダウェイ》といった選曲は、クラプトンが主導したものに違いない。

 作品の完成度に関してはかなり満足できたが、21歳のクラプトンの心はもう次のステップに向かっていた。キーワードは、シカゴ・ブルースとトリオ編成だった。

ページ制作にあたっての言い訳

まずもって、この個人作成のページは dot. に掲載されたものを、”無断(転載)掲載する記事”であることをお断りしておきます。
私は Eric Clapton のファンであり、1960年代より個人的趣味で音楽を楽しんできた一人として、非常に貴重な資料と思い私の拙いウェブサイトの一角に記したいと思い「無断転載」をしました。著者であります大友氏、関係各位の了承は得てありませんが、日本でも有名なロック・アーティスト … エリック・クラプトンを広く多くの方々の記憶に留めて欲しくてこのようなページを作りました。
非常に第1回〜62回と”長編掲載”になりますが、多くの方にお楽しみ頂ければ幸いです。

プロフィール

大友 博(おおとも・ひろし)
1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。

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