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第5回 ヤードバーズ『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』

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2014061800039_1 エリック・クラプトンの初公式作品『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』は、録音が1964年3月、発売が同年暮れ。この9カ月のあいだにイギリスの音楽界をめぐる状況は大きく変化していた。激変といっていいだろう。アメリカ進出をはたしたビートルズが世界的な規模でビートルマニアを巻き起こし、ローリング・ストーンズもビッグ・ヒットを連発。ブルース求道者的な立場を貫いていたクラプトンはあまり意識していなかったようだが、ヤードバーズのほかのメンバーたちは、次第に「オレたちも」と思うようになっていった。同世代の音楽仲間が急速に巨大化し、その結果として富や名声を手に入れてしまったのだから、まあ、無理もない。周囲の人たちからの期待も半端ではなかったはずだ。

 ちょうど『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』がリリースされたころ、ヤードバーズは具体的な形で一歩を踏み出す。のちに10ccの中心メンバーとして《アイム・ノット・イン・ラヴ》などで大きな成功を収めることとなるグレアム・グールドマンが書いた《フォー・ユア・ラヴ》をハープシコードも生かしたポップなアレンジで録音し、翌65年2月にシングルとして発表したのだ。リード・ギターを担当したのはもちろんクラプトンだが、そのプレイからは、「しかたなくやっているだけ」という気持ちが伝わってくる。ソロと呼べるようなものも弾いていない。楽しんで取り組めるようなセッションではなかったのだろう。

《フォー・ユア・ラヴ》はイギリスのチャートで上位に進出した。マネージャー/プロデューサーのジョルジオ・ゴメルスキーやキース・レルフたちが望んだとおりの結果となったのだ。「第二のストーンズ」というイメージがさらに定着していく。しかし、ブルースを追求するクラプトンにとってそれはどうでもいいことだった。初夏にはアメリカのポップ・チャートでも6位まで上昇しているのだが、そのとき、彼はもうヤードバーズを去っていた。20歳の決断である。

 クラプトン初のスタジオ録音作品となった『フォー・ユア・ラヴ』は、アルバム作品ではなく、いわゆるシングル集。彼の後任として参加したジェフ・ベックがギターを弾いた曲を含めて、発表当時は11曲が収められていた。

ページ制作にあたっての言い訳

まずもって、この個人作成のページは dot. に掲載されたものを、”無断(転載)掲載する記事”であることをお断りしておきます。
私は Eric Clapton のファンであり、1960年代より個人的趣味で音楽を楽しんできた一人として、非常に貴重な資料と思い私の拙いウェブサイトの一角に記したいと思い「無断転載」をしました。著者であります大友氏、関係各位の了承は得てありませんが、日本でも有名なロック・アーティスト … エリック・クラプトンを広く多くの方々の記憶に留めて欲しくてこのようなページを作りました。
非常に第1回〜62回と”長編掲載”になりますが、多くの方にお楽しみ頂ければ幸いです。

プロフィール

大友 博(おおとも・ひろし)
1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。

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