不肖 藁科豊 "道楽親父"のこれがセブ島(フィリピン)お気楽生活だ … !

第31回 『安息の地を求めて』エリック・クラプトン

スクリーンショット 2015-08-09 7.51.52

2014121700021_1 1974年6月にスタートしたエリック・クラプトンの復活ツアーは、同年秋に実現した初来日公演のあと、翌年、ふたたび全米各地を回り、2回目の来日公演(10月22日から11月2日にかけて、計7回)で幕を閉じた。この間に彼はミュージシャン/シンガー/バンド・リーダーとしての自信と感覚を完全に取り戻し、また、ジョージ・ハリスンのもとを去ったパティと行動をともにするようになっている。その一方で、なんとか断ち切ったドラッグに代わって、アルコールの問題が深刻になっていった。依存という意識はなかったのかもしれないが、24時間、酒が抜けることがなく、1日にブランデーを3本などということも珍しくなかったそうだ。

 この時期、マーシー・レヴィも正式に加わったエリック・クラプトン&ヒズ・バンドはジャマイカのダイナミック・サウンド・スタジオとマイアミのクライテリアでアルバムのレコーディングを行なっている。ソロ通算3作目、復活第2弾となる『ゼアズ・ワン・イン・エヴリ・クラウド』だ。プロデュースを依頼したのは、『461オーシャン・ブールヴァード』につづいて、トム・ダウド。

 前半は、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの《ウィヴ・ビーン・トールド》、トラディショナルの《スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット》、タルサ系のミュージシャン、ジミー・バイフィールドの《リトル・レイチェル》、エルモア・ジェイムスの《ザ・スカイ・イズ・クライング》など、カヴァーが中心で、しかもその大半でリゲエのリズムが採用されている。ジョージ・テリーと共作した《ドント・ブレイム・ミー》もほぼ完璧なレゲエだ。ただしこの流れは、《アイ・ショット・ザ・シェリフ》がヒットしたからといった単純な理由からではなく、あの独特のグルーヴが当時のエリックの心境にあっていたから、ということなのだろう。

 後半は、クラプトンのオリジナルで、いずれもゆったりとしたテンポの、じっくりと聞かせるタイプの曲がつづく。最後の《オポジッツ》は《レット・イット・グロウ》の続編といってもいいだろう。ナイロン弦のギターを弾きながら歌う《プリティ・ブルー・アイズ》は、90年代の一連のヒット曲の予告編のようにも聞こえる。

 タイトルの『ゼアズ・ワン・イン・エヴリ・クラウド』は、まだ「神」と呼ばれてしまうことへの洒落の効いた皮肉だったらしい。発表と前後して30回目の誕生日を迎えたクラプトンは、関係者やファンに向けて、彼らしいやり方で意思を伝えようとしていた。

ページ制作にあたっての言い訳

まずもって、この個人作成のページは dot. に掲載されたものを、”無断(転載)掲載する記事”であることをお断りしておきます。
私は Eric Clapton のファンであり、1960年代より個人的趣味で音楽を楽しんできた一人として、非常に貴重な資料と思い私の拙いウェブサイトの一角に記したいと思い「無断転載」をしました。著者であります大友氏、関係各位の了承は得てありませんが、日本でも有名なロック・アーティスト … エリック・クラプトンを広く多くの方々の記憶に留めて欲しくてこのようなページを作りました。
非常に第1回〜62回と”長編掲載”になりますが、多くの方にお楽しみ頂ければ幸いです。

プロフィール

大友 博(おおとも・ひろし)
1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。

道楽親父

  • facebook
  • twitter
gundam-mactanbase.long
新聞トップ
BLOG-Cebu
BLOG-Philippines
代表戸締り役
自宅警備員
bnr-SNN
bnr-JSA
vesmo-titletxt-%e9%80%8f%e9%81%8e

道楽親父

  • facebook
  • twitter
PAGETOP
Copyright © 不肖 藁科豊 Mactan Base All Rights Reserved.