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第12回 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ザ・バンド

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2014080600021_1 ニューヨークのアトランティック・スタジオで録音されたクリームのセカンド・アルバム『ディスラエリ・ギアーズ』が発売されたのは1967年秋。翌年春には《サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ》が全米5位のヒットを記録し、クリームと、そのギタリスト、エリック・クラプトンの知名度と評価は飛躍的に高まった。恵まれたルックスと斬新なファッション・センスなど、演奏家としての技術や感性とは別の次元でも、まだ20代前半の若さだった男の人気は沸騰していく。コンサートの規模も日増しに大きなものとなっていった。

 だが、高い演奏力を持つ3人だけのライヴは、極度の緊張を強いた。クラプトンのソロ・パートでも、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーは全力で挑みかかってくる。「果たし合いのよう」とも形容されたそのパフォーマンスに、しかし、観客は熱狂した。クラプトンは心身ともに疲れ、「もう降りたい」と思うようになった。何度かその意思をマネージメントにも伝えたらしい。

 まさにその時期、具体的には68年初夏、彼はザ・バンドと名乗る5人組のデビュー作『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を聴き、強烈な衝撃を受けた。打ちのめされた。後年クラプトンは、あるイベントでザ・バンドを紹介する際、「彼らは僕の人生を変えた」とまで語っている。

 南部出身のロカビリー・シンガー、ロニー・ホウキンスのバック・ミュージシャンたちが独立する形で行動をともにするようになった彼ら(アメリカ人1人、カナダ人4人)は、このWEB連載の第2回でも紹介したとおり、ヤードバーズとの共演を終えてイギリスから戻ってきたサニー・ボーイ・ウィリアムスンに「連中の演奏はひどかったけれど、お前たちはいい」と言わせていた。旅のなかで学び、互いを鍛えあった彼らは、その後、ボブ・ディランとも行動をともにし、伝説的な『ベースメント・テープス』をへて、『ビッグ・ピンク』を仕上げたのだった。

 オーガニックなハーモニーとでも呼ぶべきか、そこで彼らは、抑制された演奏で、なによりも歌そのものを大切にしていた。《ザ・ウェイト》や《ティアーズ・オブ・レイジ》など、味わい深く、物語性豊かな歌の数々は、クリームと対極にあるものだった。クラプトンは自分たちの音楽を「愚かで、とるにたらないもの」とまで感じたという。結局、サード・アルバムの制作を前にして、彼の心はクリームから完全に離れてしまったのである。

ページ制作にあたっての言い訳

まずもって、この個人作成のページは dot. に掲載されたものを、”無断(転載)掲載する記事”であることをお断りしておきます。

私は Eric Clapton のファンであり、1960年代より個人的趣味で音楽を楽しんできた一人として、非常に貴重な資料と思い私の拙いウェブサイトの一角に記したいと思い「無断転載」をしました。著者であります大友氏、関係各位の了承は得てありませんが、日本でも有名なロック・アーティスト … エリック・クラプトンを広く多くの方々の記憶に留めて欲しくてこのようなページを作りました。

非常に第1回〜62回と”長編掲載”になりますが、多くの方にお楽しみ頂ければ幸いです。

プロフィール

大友 博(おおとも・ひろし)
1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。

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