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第10回『アー・ユー・エクペリエンスド?』ジミ・ヘンドリックス

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2014072300013_1 エリック・クラプトンとジミ・ヘンドリックスは、1966年10月1日、ロンドンのライヴ会場ではじめて会ったといわれている。自叙伝にもそう書かれているので、確かな事実と受け止めていいだろう。クリームは、まだレコードは出ていないが、精力的にライヴを行ない、その活動を軌道に乗せていた。

 この日、クリームの3人は、アニマルズのベース奏者で、ビジネス面での新たな可能性を模索していたチャス・チャンドラーから黒人青年を紹介され、ハウリン・ウルフの《キリング・フロア》を一緒に演奏している。一般的にはまだまったく無名の存在だったその男が、ジミ・ヘンドリックス。クラプトンは、2歳半上の彼から「本物」の香りを嗅ぎとり、ある種の恐れも感じたという。

 1942年11月27日、シアトルで生まれたジェイムス・マーシャル・ヘンドリックスは、貧しい暮らしのなかでギターを独学。陸軍でビリー・コックス(バンド・オブ・ジプシーのベース奏者)と出会い、音楽への想いを深めた彼は除隊後、アイズリィ・ブラザーズ、リトル・リチャード、キング・カーティスらのバックで経験を積み、グリニッジ・ヴィレッジにたどり着いた。名クラブ「カフェ・ワ?」での強烈なライヴの噂に興味を持ったチャンドラーが訪ねてきたのは、この時期のこと。「イギリスに行こう」と誘われた彼は、契約の条件に「クラプトンと会わせること」をあげたという。

 英国人二人とバンドを組み、66年暮れ、《ヘイ・ジョー》でデビューをはたしたジミは、ビートルズやストーンズも巻き込む形で時の人となり、67年春、最初のアルバム『アー・ユー・エクペリエンスド?』を発表している。モンタレー・ポップ・フェスティヴァルで本国の音楽ファンにも衝撃を与えたのは、その直後のことだ。

 デルタ・ブルースの伝統を受け継ぐ《レッド・ハウス》から宇宙的な広がりを感じさせるインストゥルメンタル《サード・ストーン・フロム・ザ・サン》まで、そこにはジミ・ヘンドリックスのすべてが収められていた。凄いギタリストだけではなく、詩人、サウンド・クリエイターとしてのジミのすべてが。初対面のとき、クラプトンが抱いた恐れはある意味で的中したわけだ。クリームのアルバムよりジミの作品に注目が集まることに、当時の彼は嫉妬すら覚えたという。

 その後、お互いを強く意識する形で、二人の友情はつづいていった。ジミが亡くなる直前、クラプトンはデレク&ザ・ドミノスで《リトル・ウィング》を録音し、彼のために、当時はまだ珍しかった左利きのストラトキャスターも手に入れていた。しかし、結局、その曲を聞かせることも、贈物を手渡すこともできなかった。

ページ制作にあたっての言い訳

まずもって、この個人作成のページは dot. に掲載されたものを、”無断(転載)掲載する記事”であることをお断りしておきます。
私は Eric Clapton のファンであり、1960年代より個人的趣味で音楽を楽しんできた一人として、非常に貴重な資料と思い私の拙いウェブサイトの一角に記したいと思い「無断転載」をしました。著者であります大友氏、関係各位の了承は得てありませんが、日本でも有名なロック・アーティスト … エリック・クラプトンを広く多くの方々の記憶に留めて欲しくてこのようなページを作りました。
非常に第1回〜62回と”長編掲載”になりますが、多くの方にお楽しみ頂ければ幸いです。

プロフィール

大友 博(おおとも・ひろし)
1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。

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